カンボジアで小さな食堂を家族で経営するアラフォー社長のリバ剣日記

カンボジアで小さな食堂をカンボジア人の妻と3歳の息子に支えられて経営しています。

核家族という形は無理がある。

私はカンボジアに来て、たまに、核家族という形はかなり無理のある形ではないかと思う。

主に子育てにおいて。

祖父母や親族と同居が普通のカンボジアにおいて、子育ては助けてくれる人がいっぱいいる。

しかし、こちらで暮らしている外国人夫婦(日本人だけではない)は助けてくれる人がいない。 

なので、家政婦さんを雇う。

こちらの物価で外国人としての給与を得ているのだからそれ自体はそれほど苦ではないと思う。

しかし、こちらで自分で事業してるとか、こちらで就職したとなると話は変わる。

日本と違い物価は安いが保育園、幼稚園、学校などは私立を選ぶことになるので、かなり高い。

物価も実はそれほど、安いわけではない。

そこらへんはいろいろあるが、今回ははしょる。

家政婦も雇うのも信用問題もあるし、保育園通わせるも結構な金額がかかる。

私の息子は運よく、良心的な値段の保育園が近所にあり、そこでお世話になることになった。

しかし、核家族とはなんだろうか。

通常、自然であれば、草食動物(猿系は草食である)は主に安全というより、種の存続という意味で集団で暮らす。

その最小単位が家族のように理解している。

話はそれるが、繁殖を目的としないのであれば婚姻という手段を選ぶ必要はないのだと思う。

夫婦2人で仕事をしながら、子どもを育てるというのはめちゃくちゃ大変である。

一緒に両親と暮らしていれば無料(?)で助けてもらえる。

どのみち、将来、介護を考えなくてはならないのは決まっていることなので、最初から腹はくくっておくべきであろう。助け、助け合うのが家族であるという風にカンボジアで暮らしていて、当たり前のことに気づく。

日本では核家族が当たり前になった。

家も家族の分だけ必要になる。

家電や車ももっと必要になる。

経済的に苦しくなるはずである。

断っておくが思うことを書きなぐっているだけなので、どうかご容赦願いたい。

子どもを育てるというのは本当に大変なのだ。

そのぶん親も成長できる。

僕も結婚し、子どもを持っていなければ、とっくにあきらめて日本に帰っていただろう。

感謝している。

話は戻るが、核家族で子どもを増やす、繁殖し続けることはだいぶとしんどい。

ということはこれは人間が多くなりすぎていることに対しての自然の摂理なのではないかと想像したりする。

食料危機も、エネルギー問題もなんもかんも、仮に人類が現在の半分しかいなければ起こりえないのではないかと思う。

モンゴル帝国が栄えたころは虐殺がめちゃくちゃあったので、かなりの人口が減り、変わりに緑が増えたという。

それはさておき、人数が多くなったことに対する反動で、人口を減らすような方向に摂理が働いてるのではないかと妄想したりすることがしばしばある。

断っておくが虐殺を推奨しているわけでも戦争を望んでるとか、人口減を望んでるとかではない。

ただ、均一に保とうという力が働くのは自然の中では普通のことではないのだろうかと思う今日このごろ。

当然、阿呆の妄想なので、そっとしておいてほしい。

なんせ、核家族での子育ては大変なので、保育園って本当にありがたいなっていうことを結論とする。

今日も感謝。