カンボジアで小さな食堂を家族で経営するアラフォー社長のリバ剣日記

カンボジアで小さな食堂をカンボジア人の妻と3歳の息子に支えられて経営しています。

息子の4歳の誕生日。 近しい人の死。

今日、7月9日は息子の誕生日。

今日で4歳。

息子は言葉が2言語のためか遅いけど、それ以外は順調っていうかわんぱくに育ってくれている。

私の子である。

何を期待することがあろうか。

ゆっくり育ってくれぃ(笑)

お祝いっていうても本人が主役なので、本人が喜ぶところ。

特に私たちが決めるというより、まだ、4歳。

彼が食べれるところ。

多少、がしゃがしゃしても許されるところ。

スタッフさんが優しいところ。

なじみのお店があるので、そこでランチ。

家族で過ごすことに意味があると思っている。

このあと、いつも世話になっている人の家にあいさつに行く。

実は、1週間に介護されていたご両親を亡くされたのだ。

聞けば老衰で静かに亡くなられたとのこと。

幸せだなと元特養介護職員としては思う。

しかし、親族の気持ちは他人が勝手に踏み入っていいものではない。

その件に関しては自分の意見は少しは述べるが、基本は聴く一択である。

生き方の問題である。

しかし、若い時に介護福祉士として90歳以上の介護度4-5の重度の方を相手に仕事してきたこともあり、死に方についてはいつも考える。

自殺という意味ではない。

どういう最後を迎えるかということだ。

私の祖父はいろんな管につながれて病院で最後を迎えた。

なんかあっけなかった記憶があるが、病院に行くまでは家族はぼろぼろだった。

平均寿命の長さを喜ぶ節があるが、正直、カンタンに死ねなくなった。

死ぬことを許されなくなってるように見える。

薬がなければ生き伸びれない人がどれくらいいるのだろうか。

本来、死ぬところを助かったがために寝たきりになる。

生き伸びた本人もその人を介護する人もきつい。

裕福な人ならいいだろう。

貧しい人は働かなければ食べていけない。

でも介護しなくてはならない。

日本は社会福祉が制度である。

しかし、東南アジアにはない。

だから家族で助け合う。

いつも家族を大切にしている。

これに正解なんてない。

生き方、在り方の問題である。

だからお互いがよしと思う形で死を迎えられたらそれが一番やろなと思う。

今日も感謝。