カンボジアで小さな食堂を家族で経営するアラフォー社長のリバ剣日記

カンボジアで小さな食堂をカンボジア人の妻と3歳の息子に支えられて経営しています。

レベル1から始めた海外移住と経営⑤ オープンしてからの1年。 辛かった時期。

とうとう本格的にオープンした。

しかし、閑古鳥が鳴く。

本当にお客さんが少なかった。

現在の売り上げの3割程度だった。

そして、当然ながら、自分も現場もレベルが低かった。

今のスタッフと仕組みなら簡単にできることも当時はできなかった。

これは完全に私のレベルが低いからである。

全てが雑で適当だった。(本人にそのつもりはない)

根性論でがんばっていた。

しかし、当然ながら、すべてにおいてレベルが足りていなかった。

しかし、主なポイントは仕組みづくりと料理の質、そして、給与を含むお金に関する知識だろう。

自分で言うのもなんだが、今と比べて、比較にならない品質の低さだった。

一応、言い訳させていただきたいのだが、きちんと作ったらちゃんとおいしいのではある。

しかし、きちんと再現できるというレベルのシェフがいればの話しである。

私自身もレベルが低いのにそんなんできるわけなかった。

しかし、そこそこの品質のものと価格の安さのおかげで、ちょくちょく来てくれるお客んもおられた。

しかし、今とは雲泥の差であったことはまちがいない。

安かろうまずかろうと言われてもしかたがないレベルだった。

こちらの失敗が原因で常連さんが離れることもしばしばだった。

結果的に少しづつ売り上げは増えたが、それでもさっぱりだった。

とにかくお金が残らない。

返済もできない。

出資者のA社長からはちょくちょく怒られる(当たり前である。)。

しかし、はっきり言って、A社長のは愛のむち以外のなにものでもなかった。

出来の悪い子どもにげきを飛ばしてくれているようなものだ。

それもわかっていた。

が深くはわかってなかったと思うし、どうすればいいかわからなかった。

なんとか毎日をこなす日々。

落ち込む日々。

自分が生活費で使えるお金は3万円くらいだったと記憶している。

お店に住んでいたので、家賃はいらなかったが、それでも日々、食べていくので必死だった。

設計してくれたMくんも一緒に貧乏してくれていたが、私の残念さにあきれていたことだろう。

しかし、彼が一緒にいてくれたことは今になっても本当に助けになったし、勉強にもなった。

彼はアクティブだったし、明るく買ったし、前向きだった。

常に何か活動していた。

芸術家肌だったので、わかんないことが多かったけど、本当に彼のおかげで生き延びたと言っても過言ではない。

それくらい苦楽を共にしたし、なにより、彼の動き、彼の助けに学ぶことが多かった。

私は人運がいいと本当に思う。

とにかく、本当にお金がなかったので、毎日、15円くらいの袋めんや、スタッフのみんなと食べる賄い。

たんぱく源は卵。

たまのぜいたくは中華。(カンボジアの中華は安い。300円あったら腹いっぱい食べれる)

そして、当時、私のお店がある地域はお店も少なかったので、ライバル店も少なく、どうにかやっていけた。

そうこうしてるうちにオープンして初めての年末。 初めて、月の売り上げが10000ドル(日本円で120万円くらいかな)に達した。

そんな体たらくである。

そして、ここから2018年くらいまでは空回りまくり、全然伸びない(一応少しは伸びてはいるのだが)時期が続く。

次回に続く。