カンボジアで小さな食堂を家族で経営するアラフォー社長のリバ剣日記

カンボジアで小さな食堂をカンボジア人の妻と3歳の息子に支えられて経営しています。

昔を美化する傾向がある。選択しが多い現代。 捨てること。

なんとなく、昔を美化する傾向があるように思う。

経済的な側面で。

昔を生きていないのになぜ、そう言えるのか?

生きていた人は今の現状、環境と正確に比較できるのか?

できないと思う。

私の子どものころは外食なんてほんとにたまに連れていってもらう程度だった。

宅配ピザや、マクドナルドはごちそうだった。

しかし、今はそんなことはない。

カンボジアでも8年前と今でずいぶんと景色が変わった。

結婚前(6-7年前)は妻の実家にはシャワーなんかなかった。

本当にシンプルな木造の高床式の家だった。

僕はその風情が好きだった。

コーヒー飲めるところなんか周辺になかった。

冷蔵庫は、、、私の友人が必要なくなったということでいただきものを使ってもらっているが。

しかし、カンダールの妻の実家に行くとなれば本を持ち込むし、コーヒーは自分で用意するし、特に仕事はしない。

選択肢がないので、お金を使う必要がない。

だから、カンボジアの田舎のお義父さん、お義母さんは基本的に無欲だ。

仕送りの額は妻に言われるまま送っているが、姉妹全部合わせても$200もないだろう。(7割がた、うちからやけど) 

しかし、それで十分なのである。

しかし、プノンペンで住んでいると$200では足らない。

子どもがいるというのを差し引いても足りない。

なぜか。

選択肢があるからだ。

誘惑があるからだ。

仕事してるというのももちろん大事な理由だ。

仕事上で使うお金もかなりある。

なければないなりに生きるものだが、あれば他と比べて、自分がみじめで貧しく感じる。

この辺は生存本能の部分に関わるものではなかっただろうか。

日本もシンプルに昔より支出が増えているのである。

一家に1台だった車が一人1台になったらそら、支出も増えますがな。

1つの家族に1つの家、住まいとなればそれは支出も増えますがな。

理由はいろいろあれど、現代において、自分で取捨選択して、捨てることを意識的にして、範囲をしぼることは一つ大切なことではないかと思う。

千手観音さまではないので、全部は持てないよ。

少なくとも僕は。

今日も朝ごはんを食べれる。

今日もシャワーを浴びれる。

今日も寝床がある。

今日も仕事がある。

今日も妻と子どもが健康で元気である。(妻はニキビで悩んでいるが)

今日も生活できている。

十分に幸せである。

足るを知る。

知ったうえで、今の現代社会でそれではやっていけないことも身をもって知っている。

だから、学び続ける。

今日も感謝。